遠くから、あたりをかき分けるように、サイレンの音が近づいてくる。どこか制圧的で耳ざわりな響きだ。藤樹和也にはまるでそれが自分を呼んでいる金切り声のように聞こえた…。

同級生が飛び降り自殺をした。

昼休みのグラウンドは駆け寄って行く生徒たちで騒然となった。4階建ての校舎のどの窓からも驚きと好奇に満ちた顔がのぞいている。

「教室へもどりなさい。みんな教室へもどりなさい」

校内放送が命令口調のかん高い女教師の声にとって代わった。しかし、生徒たちはまるで磁石にでも引き寄せられるかのように一箇所に集まろうとしている。聞き覚えのある教師たちの声がアナウンスの奥で右往左往していた。

ざわめく塊の一角を突き崩すかのように、背広姿の教師たちが強引に分け入り、雪崩込んできた。群がり、ひしめく生徒たちの好奇心を剥がすように、教師たちはその中心へと向かっている。

グラウンドには地面にしたたかに叩きつけられた生徒が口のあたりから血を吐き、不格好に手足を折り曲げ、崩れ伏している。それを取り巻く黒い渦の中からは、息を呑むような緊迫感がらせん状に広がっている。

どこかで見たような…和也は窓から身を乗り出し、その一部始終を食い入るように見た。

ゆっくりと窓から体を離し、周囲を見渡した。

誰もが階下の光景に釘付けにされている。まるでそこだけ時の流れがつかえているかのようだ。

11月初旬の空は、その季節に時おり見せる偏りのない青を敷き詰め、太陽をまともに受け止めた校庭の樹々の葉は、陽に映え、微細な緑の光を飛び散らせている。

ふと、前方を見上げた。黒い学生服が空に舞い、青い大気に溶け入るのを見たような気がした。

眼下では、救急車が黒い円形の塊を強引に突き崩し、ひび割れた扇状へと変えている。車から飛び出してきた隊員たちは、手慣れた物腰で、事態を急速にありふれた日常へと向かわせようとしている。白い担架に倒れ伏した生徒が乗せられ、車に運び込まれると、救急車は来た時と同じようにヒステリックな音を振り撒き、人波を裂いて行ってしまった。

生徒たちの好奇心と心臓の高鳴りは窓ガラスの奥に閉じ込められ、グラウンドには、陽ざしが地を虚ろに這っていた。

夏の日の残照を体中に浴びたようなけだるさが、その時和也を襲った。体が茜色に錆びついて、崩れ落ちていくような嫌な感覚だった。

飛び降り自殺をした生徒は、中1のトモナガという生徒だった。救急車が駆けつけた時には、13年と3ケ月の白くたおやかな、繊細な神経の入り組んだ肉体は、すでに時を刻む鼓動を止めていた。

その日、新聞社やテレビ局が重々しい機材を携え、押し寄せた。退屈だけが幅をきかせ、支配していた日常に、乾ききった喉にしみわたる清涼飲料水ほどの刺激をそれはもたらしたかもしれない。突然わいた非日常的な空間に少なからず好奇の目を弾ませていることに生徒たちの誰もが気がついていた。

たとえどれほど手きびしい光が記者たちの瞳の奥に宿っていても、生徒たちはすぐさまそれをまったく当てのはずれた方向へと散らせるしたたかさを、その年頃にはすでに持っている。むしろその対応に不用な程、神経質になって、青ざめ、びくついているのは教師たちのほうだった。

学校側は、緊急に生徒たちを集め、風紀を正し、素行に注意するようさとした。

しばらくの間、買ったばかりの服に身をまとい、異郷を訪れた旅人のような、違和感と隣合わせの日々を生徒たちは押しつけられた。

が、誰もそうした日常に長く耐えられるものではない。しばらくするとあちこちで、トモナガの自殺の動機がまことしやかに囁かれ始めた。ウンドウまるでダメだったでしょ。クラスの女の子に笑われてさ---。可哀相にあいつ、上級生のTに金をむしり取られてた---。そういやぁ、ゲームソフトの貸し借りで誰かさんともめてたっけ---。オヤジが九州に単身赴任だって寂しがってたもんな---。トモナガのことをよく知るという生徒がさまざまに訳知り顔で口ばしった。

さらに、有名校への進学を強要され、塾のうえに家庭教師まで付けようとする親の過剰な期待が重荷で、夜中に自動販売機で酒を買い、ひそかに部屋で飲んでいたとか、好きだったクラスの女生徒に何日も迷ったあげくに出したラブレターを、同じクラスの生徒に読みあげられ、傷ついていたという噂まで伝わってきた。

誰もがかってなことを、面白可笑しくとりざたした。

和也はそんなクラスメイトたちの内緒話を愚劣なものと思った。誰もが表向き、トモナガに同情を寄せるような顔をしてはいたが、裏で弱者を見下げ、優越感にひたっているような雰囲気が気障りだった。

和也自身、トモナガについて、そう多くを知っているわけではなかった。

塾の夏期講習で机を並べたことがあり、同じ中学という親しさから参考書を貸したこともあったが、その後、彼と学校ですれ違っても、軽く挨拶をかわす程度で親密にはならなかった。

どことなく自分と似ているというのがトモナガから最初に受けた印象で、自分の中の嫌な部分だけ鏡で見せつけられているような気がして、無意識のうちに彼を遠ざけていた。

「参考書、試験に出そうなところをマーカーしておいたから」

トモナガとの会話で覚えているのはそんなやり取りだった。どうみても赤とブルーの配色を楽しんでいるようなマーカーの引き方だった。もう一つ、それを返してもらう時に気づいた、トモナガの右手の異様に伸びた小指の爪。「なんにでもつかえるから」そう言って、薄い唇をゆがめていた。

そのトモナガが同級生たちからいわれのない虐待を受け、クラスメイトたちからはまるで路上に放置された猫の死骸のようにうとんじられ、鼻つまみ者にされているという噂を和也が耳にしたのは、少しずつ季節から身をすくめるほどの強い光が失せ、街を行き交っていた原色の色彩がようやく落ち着いた色に戻り始めた頃だった。

時の流れが、次第に生徒たちからトモナガの記憶をかすめ取っていった。さらに、季節が師走へと移り、誰もがあわただしい空気に身をつつまれるようになると、トモナガの記憶はすでに遠い過去に置きざりにされ、誰一人としてそれを口の端にもかけなくなった。

和也にとってもそれは同様であった。

学期末の試験のこと、塾で与えられたうんざりするほどの宿題、冬休みに入ってすぐ友人たちと長野のスキー場に2泊3日の予定で出掛けることなど、頭の中はふりかかる火の粉を払うような混乱がひとしきり続き、他の事に想いを向けるゆとりなど全くなくなっていった。

が、それでも、授業中、ときおり窓の外に虚ろに視線を移し、トモナガが飛び降り自殺をしたあの日と同じ、雲ひとつない、光にむせかえる、真青な空を目にすると、ふと彼のことが頭に浮かんだ。

まるで映画の開演を告げるベルのようなものだった。そのあとにはきまって、グラウンドに口から血を吐き、飽きられてポイと捨てられた人形のように、ぶざまな恰好で仰向けに倒れているトモナガの姿が瞼の裏のスクリーンにぽっかりと鮮明に浮かびあがった。さらにあの日聞いた救急車のサイレンの音までもが記憶の底から蘇った。

12月のある日の昼休み。和也はトモナガが飛び降り自殺をした校舎の屋上へと出向いた。何故か、そこへ行ってみたくなった。自殺防止のネットだろうか。屋上への外階段が途中、金網で囲われていた。ふと、下をみると少しばかり足がすくんだ。高所恐怖症の和也にとってそこはあまり居心地のいい所ではなかった。

一体、トモナガは何を考えていたのだろう?…。

何が自殺に追いやったのだろう?…異性問題だろうか?…成績が思うように上がらないことだろうか?…そういえば、成績が下がって母親にファミコンを取り上げられたって、いつかこぼしてたっけ…でも、そんなことくらいで、飛び降りたりするだろうか?…いや、やっぱり、上級生のTに金をゆすられてたってほうが深刻だ。同じクラスの仲間に無視されるのもけっこうこたえる…ぼくだって耐えられない…だからってひょうきんに振る舞うのも屈辱もんだ、もし、ぼくが、夏休み明けにトモナガと友達になってたら…あんなことになってなかったかもしれない…いや、自分をかいかぶりすぎだ。どっちにしても、トモナガは13年間で自分に見切りをつけるつもりだったかもしれない…。

「僕にはどうしても生きていく理由が見つからない。僕をイジメる奴らのためにだけ生きてるようなものさ」いつか、そんなことも言ってたっけ。

いくらか斜視ぎみで、どことなく順応性に欠けたようなトモナガの顔が古いモノクロ映画の登場人物のように精彩を欠いて浮かんだ。感情の起伏をつかさどる機能が麻痺したような、印象の薄いのっペりとした表情。それでいて汗ばんだ後ろ手で、いつ火をふくかわからない導火線をぎゅっと握りしめているような不気味さをたたえた瞳。陽炎を連想させる痩せたひ弱な身体。声にしても雨を吸い込んだ苔のように始終しめっぽい。さらに救い難いことに虐待されることを自ら望んでいるような雰囲気が常に肌着のようにまとわりついている。

イジメる側にしても、まるでそれを当然のことのように----- 朝起きて、歯を磨いて、朝食をとって、トイレに駆け込んで、と同じ程度に ----- なんのためらいもなく、特別な理由もなく、単に生理的衝動にまかせてのことだったかもしれない。

和也は金網に頬をすり寄せ、瞳がちょうどおさまるほどの穴から、外を覗き見た。

フェンスの菱形の小さな囲みの外には、テニスコートでボールを打ち合うテニス部員や、ソフトボールでグラウンドの半分を占領している活発な男子生徒たちの姿が見えた。廊下の隅で教師に注意され、頭を重い鉛のようにずっと垂れたままの男子生徒もいる。グラウンドの手前で中空にかん高い声を飛ばしながらバトミントンのラケットを振り回しているのは同じクラスの女生徒たちだ。昼休憩の合間にも、教科書を開き、勉強に余念のない生徒の姿も見える。

爪の先ほどの黒い点が枠の中をクルクルと動き回り、八方に飛び散ったかと思うと、また何かの拍子で集まっては黒い塊になり、さらにそれもまたちりぢりに別れ、縦横無尽に動きまわり、始終そうして形態と彩りを変えた。

孤独にポツンと存在していた点も、別の点との出会いで精彩を放ち、モノトーンの色調も途端に艶やかに色めき立った。運命のきまぐれを、まるで天上の神になりかわって見ているかのような気分だった。

北の空から風がひやりと舞い降りて、和也の両肩に留まった。

雲の隙間から射していた光は薄れていくばかりで、上空にたれこめた大気は知らぬ間に湿気をたっぷり含んだそれに変わり、校庭でたわむれる生徒たちの表情にはひと雨きそうな空模様に不安の影がさし始めていた。

遠くから重みのある灰色の波状の雲がゆっくりと押し寄せてきている。

雪が降るかもしれない…あそこに戻らなければ…、和也は金網から体を放した。

その日以来、和也はまたトモナガのことを考えるようになった。何故か他人事のような気がしなかった。

生きることに疲れ果て、飛び降り自殺をしたのだろうか?…それともイジメた連中に仕返しするために、自殺したんだろうか?…。フェンスの小さな囲みの外に広がる無邪気な喧噪。彼らとの隔たりを埋めるために体ごと真っ逆さまに飛び込んでいったのかも知れない…彼らとの隔たりを永遠のものとするためにあえて死を選んだとも考えられる…。

どれほど思い巡らしても、トモナガの心の傷の深さは計りようがないような気がした。きっとあの日のあの空の輝きが、トモナガにそんな気をおこさせたに違いない…。

和也の瞳の奥には、心の闇をあまねく照らし、感情のシミをあぶり出しにするような、あの日の空の強烈な輝きがいまだに焼き付いて残っていた。


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