青砥 恭(あおと やすし):プロフィール
島根県松江市出身。20年間、埼玉県で県立高校の教諭。その後、2019年3月まで関東学院大学、埼玉大学、明治大学などで講師を務めた。(教育学、教育社会学、教育法学)。「子ども・若者の貧困と格差」を教育と持続的な地域づくりという視点から研究している。2011年7月に特定非営利活動法人さいたまユースサポートネットを長年、ボランティア活動を一緒にしてきた友人たちと設立。その後、さいたま市で学習支援、居場所づくり、就労支援など若者たちの包括的支援のネットワークと地域拠点をつくる活動をしている。2016年からは、「全国子どもの貧困・教育支援団体協議会」の代表幹事も務める。
青砥:大学を出て研究者を目指していたが、学校で警備員のアルバイトをしながら、元炭鉱労働者の用務員さんや、今で言うシングルマザーの「みどりのおばさん
*」と一緒に仕事をしていた。
このことがその後の教員人生や研究活動にも生きている。自分の人生、活動の原点がここにあったような気がする。
- いきなり社会との接点を持ち、ご自身もそうしたコミュニケーションの中に身を置かれていた?
青砥:30代に教員になり、学生時代の同僚と結婚し、県内のある町の公団住宅に暮らした。自治会活動に誘われ、広報部長になり、広報紙を出すなど、ここでも社会とのつながりを経験した。
写真を撮り、記事を書き、様々な意見を持つ人々と話をし、地域のテーマに取り組んで行くと、奥も深く、地域の社会資源の豊富さにも気づいた。
その後、埼玉の新設高校に赴任し、学習指導の傍ら、学校作り全般に携わった。当時の校長がすばらしい人でよく話し、様々な課題を託され、夢中で取り組んだ。
校内だけでなく、地域のボランティア活動で「教育やこどもを語る会」を定期的に開き、小学校の教員や父母、地域の市民の方々とふれあうなかで、やはり地域の社会資源というものに目が向いていた。
- こうした活動に一念発起というのは良く聞くのですが、ずっと下地があり、今日に至っていると考える方がいいのですかね。
青砥:そう。研究も教育も、地域活動も、いつも一緒に。高校の教師から大学で教育学を教える仕事になったが、「地域と学校」をテーマに、山形、大阪、福岡、沖縄などでの研究活動も並行して10年ほどやり、論文も書いた。「高校中退や子どもや若者の貧困」をテーマに執筆活動もしてきた。
- 今のNPOはそうした活動の延長上に?
青砥:さいたまユースは埼玉県からこどもの貧困対策で相談を受けたのがきっかけでできたと言ってもいいと思う。中途退学の高校生は多い年で13万人、全体の1割ほどで、平成だけで300万人ほどになる。
その若者の多くは学びの機会を中途で失い、非正規雇用や半失業で暮らしている。就労の支援がなければ貧困化していくことになる。就労支援だけではなく仲間づくりの居場所作りが必要だ。
そういう世帯の学齢前のこどもには、遊びと食事、小学生ではサッカー教室、中学からは学び直しや仲間作り、そして就労支援ときめ細かい対応が必要で、私たちの団体はさいたま市内で実践している。
- セミナーを伺っていると、埼玉大学の教育学部の学生などが、こうした学び直しの教育に向き合っている。なかなか大変だけれど、これこそが実践的な教育学で、子どもたちに鍛えられる教師予備軍の姿が見えてくる。たくさんの子どもたちがNPOで学び遊び、巣立っている。雇用などにも随分配慮して活動されていると。今の状況は?
青砥:一昨年の事業規模が1億4千万円ほど。学ぶ子どもたちも、年代もテーマも様々だが1500人ほどに。昨年は事業も厳しかったが、今年からは拡大してくると思う。
- 今年から力を入れていくテーマは?
青砥:地域の連帯と子育ての拠点づくりです。教育格差が広がる中で、子どもたちの環境も厳しくなっている。コロナ騒ぎのしわ寄せも、弱者に。自治体、学校、児童施設などの連携などで、町づくりまでを考えたい。
今の教育の現状は、自由主義(リベラリズム)のなれの果てではないか。教育の市場化が進み、教育の質が金の多寡で取引されている。
その結果、社会が分断され、教育の質の格差も広がっている。受験競争の低年齢化が進み、都内では、千代田、中央、港、品川などでは4割が中高一貫校に行く。貧困層や学校教育に関心がない層だけが公立学校に進学する、そんな時代が日本にもやってくるのではないか。
子どもたちがその狭間で右往左往しないように、全てのこどもにいろいろな人の目が届くように、地域社会で育てられるような仕組みを考えている。当面はコロナ対策で頭が痛いのだけど。
*学童擁護員、通称みどりのおばさんの愛称で、1959年に東京都で寡婦の雇用対策として創設された。午前2時間、午後3時間登下校の安全対策を担っていた。