CHILD LIGHTS

児童虐待の結愛(ゆあ)ちゃん事件、心愛(みあ)ちゃん事件の裁判が相次いだ。新聞やテレビで紹介される記事は、いずれも児童虐待という言葉では、くくりきれないような凄惨なものだった。かわいそうで触れたくないと言う声もあるが、こうした事件を繰り返さないためにも、事件の背景を知っておく必要がある。DVや虐待の当事者支援に携わっている竹内由紀子さんに裁判を傍聴したお話を伺った。

- 家族構成ですが、父親・勇一郎(42歳)母親・渚(32)心愛ちゃん(事件当時10歳)で、その下に生後すぐの二女がいた。この裁判で、母親が懲役2年6ヶ月(執行猶予付き)、父親勇一郎は懲役16年(勇一郎被告は上告)と。一昔前だと、子育てに関わる母親に批判が集まることが一般的だったと思うのですが。

竹内:一昔前は、現在と比べ、子育ては母親の役割というのが当たり前だったので、子どもを虐待してしまう母親に対しては、母性神話を基にした批判がとても強かったのだと思います。

「育児書のとおりに出来ない」「どうして子どもが泣いているのかわからない」「子どもを育てられるのだろうかと不安ばかりで、ちっとも可愛く思えない」など「自分はダメな母親だ」と母親が自分で自分を責めるだけでなく、夫・親やきょうだい・友だち・近所の人などから「母親のくせに」と非難されることが多かったのだと思います。

母親であるなぎさの初公判の時には、「母親なのに、自分の命とひき替えても、子どもを守って当たり前なのに、いったいどうして守れなかったのか?!」という声が、傍聴席を求めて並んでいた時に周りから聞こえました。これはまさに「母性神話」に基づいた非難だと思いました。

男性であれ女性であれ、年齢が高ければ高いほど、現在でも母性神話は生き生きと息づいていると感じました。

「あんなことをする子ではなかったので信じられない気持ち」、「密室で起きたことなのでわからないが、主たるものは息子だと思う」という勇一朗の実母の発言からも、なぎさにも責任があると言っていることと同じであり、それは息子だけの責任ではないと言っているのと同じだと感じました。DVの関係性でどのような状態にあったのかを理解してもらうことの難しさも感じました。

昔は母親に批判が集まり、最近では父親の虐待が目に付く、という点から考えても、虐待が起きるのは、父親・母親のどちらかの問題ではなく、子育てをしていくときに必要な内的コントロールの力を使うことが出来ず、親の考えた通りにならない時に感じる焦りや苛立ちの気持ちが怒りに変わり、その怒りをそのまま子どもにぶつけてしまっていることに大きな要因があるのだろうと思います。

勇一朗・なぎさ夫婦の関係は、DVの関係性であったと思います。勇一朗被告は自分の自信のなさからくる嫉妬心から、交際している時点から常に、電話やLINEで何をやっているのかをうかがうというように束縛・監視・行動規制をしていました。

判決文でも、「なぎさの虐待への関与は、まさに被告人による支配の結果というべきで、被告と共同して虐待を行ったと評価しうるものではない」とありました。これは、裁判でなぎさと勇一朗と双方の証言を聴いたことでわかったことだと思います。片方だけの話では、裁判員や裁判官の理解を得ることはできなかったのではないかと思います。

- 結愛ちゃんの事件では義理の父親の虐待でしたが、心愛ちゃんの場合は実の親。二女の存在などが影響するのか?凄惨な勇一郎の虐待は、むしろ虐待という枠とは別の精神のゆがみのような印象もあるが、祖母との関係は?また、最近では要因として虐待の連鎖を指摘する声もありますが・・。

竹内:実の親と義理の父親というのは、ただ単にその状況の違いがあっただけのことだと思います。実父であれ、義理父であれ、子どもをしつけるときの力の使い方が間違っているということと、「子どものためを思ってやっているのに」という自分の考えを正当だと考えているときに、その考え通りにならない子どもに対して罰を与える、お仕置きをする、という考えが間違っているのだと思います。

実の妹の証言にも「自分の思い通りのことを相手がしないと怒りを感じ、それを相手にぶつける」とありました。これは、児童虐待をする人、DVをする人に共通の間違った考え方だと思います。

社会は未だに大人の側に立って正当化を受け入れているようなところがあるので「しつけをしただけであって、暴力をふるったりしていない」という言い分を受け入れているところがあり、それが、虐待の根っこにある問題に気づけずにいる現状があるのではないかと思います。

「虐待は連鎖する」といわれると、虐待をされた経験がある=虐待する人になる、

という理解をする人が多いと思います。正しくは、虐待した人は、昔(子どもの時に)虐待を受けた人が多い、ということです。だから、絶対虐待する人になるということではないのです。中には、自分が虐待する親になってしまうのではないかという大きな苦しみから、結婚をしないと決める人もいるくらいです。まず、「虐待の連鎖」の偏見をなくしたいですね。

虐待という枠とは別の精神のゆがみのような印象もあるという点ですが、裁判を傍聴しているときにも感じましたが、勇一朗被告は、「自分は悪くない」という立ち位置に立っているのです。それは、精神のゆがみではなく、考え方のゆがみだと思います。

精神のゆがみであれば、相手を選ぶことはできないと思います。実の妹の証言にもありましたが、「自分より地位の高い人に対してはいい態度をとり、下の人と見るとバカにするような態度をとっていた」「外面がいい」という言葉からもわかるように、人を見て行動言動を選んでいるので、これは選んでいる人の考えや価値観のゆがみだと思います。

勇一朗被告の実母は2回証言台に立っているので、その証言から垣間見れることはありました。心愛に対する勇一朗被告の態度に対して実母は「昔の自分を見ているようだった」「女の子に対してはもう少し優しく言わなければならないのではないかと思った」という発言から、勇一朗被告もかなり厳しく叱責されて育ったのかもしれないと推察しました。罰を受けたことも十分考えられます。

それから、心愛さんに対して「パパに叱られるのは躾なんだよ、みんな、されていることなんだよ」と言っていることから、「みんなされていることだから当然なんだ」という考えがあるからこそ、間違いに気づけないのだろうと痛感しました。

- 多くの人がこうした悲劇を生み出さないためにどうしたらよいかと考えるのですが、祖父母などの家族、地域、児童相談所、警察などでの課題は見えてきましたか?

竹内:心愛さんは、祖父母・叔母に父親からの暴力のことを訴えていて、勇一朗に確認をしているのですが、勇一朗がそれを否定するとそれで終わってしまう。親が子どもを信じたい気持ちはわかりますが、信じたいからこそ、しっかりと子どもに向き合う勇気と覚悟を持つことが親に出来ることであり、親の愛情なのではないかと思いました。

児童福祉士・児童心理士も、心愛さんの状態をキャッチしていたと思うのですが、その後、所内で共有し担当の人がイニシアティブをとって行動をとることが出来たのかどうか、疑問を感じました。児童相談所内のパワーバランスはどうだったのかと疑問を感じました。

要保護児童対策地域協議会などの組織もありますから、そういう組織にかかわっている人たちが、子どもの話を聴いて、子どもがその出来事をどのように捉えているのかを聴き、信じて動こうとする人がいることが大切だと思いました。

フレームワークをもってつながっていくことではないかと思います。だからこそ、相手を信じて任せるという信頼感が大切だと思います。明確に動くために、問題を解決するためのシンプルな手順が必要だと思います。

なぜ信頼できないのか?→責任を追及されるから→責任は負いたくない→責任逃れ→相手に押し付ける→失敗を認めない→失敗は恥だから・・・と考えていくとどれだけ、完璧主義の人が多いのかと痛感します。親として子どもに期待するのは当然だと思います。が、それが、「期待」なのか「過度な期待」なのかを、親が自分の考え・価値観をしっかり認識することが、自分をコントロールする力を発揮するためにも大切だと思います。

最後に、勇一朗被告は、心愛さんのしつけにとてもこだわっていたと、実妹の証言にありました。心愛さんが自ら言ったことを最後までやり通すことが出来るよう関わるのが親の役目だと勇一朗被告は強く思っていたようです。

ずるい人間になってほしくないと言っていたことを考えても、最後までやり通せるように関わる中で、言うことを聞かないでやろうとしない時やふてくされてやろうとしない時には、厳しく叱責してでもやらせるのが親の役目と考えているのではないかと考察します。

厳しく叱責するのは、子どもの将来を思ってやっていることなので、これは暴力に当たらない、という暴力容認の意識が高かったと考えられます。暴力容認意識が高く生まれつく人は誰もいないと思うので、勇一朗被告も育つ段階で体験しながら学んできたことなのだと考えます。